ANALYSISグローバル2026-08-19

SSLモーメントには20年かかった——オンチェーン金融の現在地は1996年である

パブリックチェーンは全公開であるがゆえに社会実装が進まず、ゼロ知識証明(ZK。データを開示せずに正しさだけを証明する技術)の成熟がその制約を外す——この見立ては、方向としては正しい。だがSSLの歴史が示すのは、暗号技術が実用水準に達した時点と、社会がそれを既定値として使い始めた時点との間に約20年の隔たりがあったという事実である。本稿は、その20年を埋めたものを分解し、オンチェーン金融の「SSLモーメント」が何によって訪れるのかを問う。

BY 石田陽之 · 11 MIN READ

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パブリックチェーンは全公開であるがゆえに社会実装が進まず、ゼロ知識証明(ZK。データを開示せずに正しさだけを証明する技術)の成熟がその制約を外す——この見立ては、方向としては正しい。だがSSLの歴史が示すのは、暗号技術が実用水準に達した時点と、社会がそれを既定値として使い始めた時点との間に約20年の隔たりがあったという事実である。本稿は、その20年を埋めたものを分解し、オンチェーン金融の「SSLモーメント」が何によって訪れるのかを問う。

何が論点なのか

全公開性は不具合ではなく設計の帰結である。互いに完全には信頼しない複数の当事者が、単一の運営者なしに同じ記録を共有するには、全員が同じ内容を検証できなければならない。可視性は信頼の代替として置かれている。

そのコストはすでに実測されている。欧州証券市場監督機構(ESMA)は2025年7月のリスク分析で、Flashbotsの推計としてイーサリアム上のMEV(取引順序の操作から抽出される価値)が2022年9月から2024年6月初までで526,207ETH、約11億ドル(1ドル=159.6円換算で約1,760億円、2026年8月19日時点のレート)に達したとしている。同期間のDEX取引高の約0.12%にあたる。同報告はさらに、「取引が公開されているのだからブロックチェーンでは従来型のフロントランニングという概念は成立しない」という主張を誤りだと明記し、対抗策の一類型を「MEVの主因である取引の公開性そのものに、秘匿性の強化によって対処するもの」と位置づけた。監督当局が、公開性を市場の公正性を損なう原因として名指ししている。

日本銀行も2025年5月のCBDCパイロット実験報告の別冊で、パブリックチェーン上でのCBDC発行はスケーラビリティ・プライバシー・ガバナンスの面で課題が大きいとしつつ、Layer2やゼロ知識証明などの技術革新次第という条件付きの余地を残している。問題意識は共有されている。問われているのは、技術がいつ制約を外すのか、である。

SSLの20年が示したのは、暗号ではなく配布の問題だった

SSLは1995年にNetscapeが実装し、1999年にTLS 1.0として標準化された。だがHTTPSがウェブの既定値になったのは2010年代後半である。Googleは無料・自動の証明書発行を行うLet's Encryptにプラチナスポンサーとして関与したうえで、2018年7月のChrome 68で、すべてのHTTPサイトに「保護されていない通信」の表示を開始した。暗号が使えるようになってから、暗号を使わないことが不利益になるまで、20年以上かかった。

この20年を埋めたのは暗号技術の進歩ではない。埋めたのは三つの条件である。第一に証明書の無料化と自動化、第二にブラウザによる既定化と非対応の可視的な不利益化、第三に検索順位という経済誘因。つまり配布・既定値・誘因の設計であって、暗号の性能ではなかった。

ZKの現在地はどこか。Ethereum Foundationは2025年12月、ブロック証明の生成時間が16分から16秒に短縮され、コストが45分の1に低下し、対象ハードウェア上で全ブロックの99%を10秒以内に証明できるようになったと報告した。そのうえで、2026年末までに128ビットの証明可能安全性と300KB以下の証明サイズを達成するという安全性目標を新たに設定している。

性能は解決した。だが安全性の証明を2026年末の目標として置いていること自体が、現在地を示している。SSLで言えば1995年から1999年、「使える暗号ができた」段階に相当する。「誰もが既定で使う」段階ではない。

金融が必要としているのは秘匿ではなく「開示の時刻」

ここで用語を精密にする必要がある。金融機関が求めているのは匿名性ではないし、永久の秘匿でもない。求められているのは「誰に、どの粒度で、いつ開くか」を設計できることである。

有価証券の情報開示制度は、この設計を法として実装したものだ。フェア・ディスクロージャー・ルール(金融商品取引法27条の36)は、重要情報を特定の相手に先に伝えることを禁じ、伝達後の速やかな公表を義務づける。制度の要諦は秘匿ではなく同時性にある。発行体の資金移動やファンドのポジションが常時可視化される状態は、この同時性という前提を技術的に無効化してしまう。執行面でも同じことが起きており、その帰結が前述のMEVである。

したがって必要な機能は「暗号化」ではなく、選択的開示と時限開示である。国際決済銀行(BIS)のProject Tourbillon(2023年11月、ブロックチェーンは用いていない)は、この配分設計を先に示した実例といえる。支払人は加盟店・銀行・中央銀行のいずれに対しても匿名であり、加盟店の身元は決済の一部として加盟店の銀行にのみ開示されてそこに留まる。中央銀行は個人の決済データを見ないまま、流通総量を実時間で監視できる。問いは「隠せるか」ではなく「誰に開くかを設計できるか」に移っている。

ただしSSLとの間には決定的な非対称性がある。SSLは通信路の暗号化であり、復号後に暗号文は残らない。ブロックチェーンでは暗号文が永続する。欧州データ保護会議(EDPB)は2026年7月に確定させたブロックチェーン・ガイドラインで、暗号化データもハッシュ値も原則としてオンチェーンに記録すべきでないとし、いかなる暗号方式にも有限の寿命があると指摘した。この一点で「SSLの再来」という比喩は成立しない。ZKが本命になる理由もここにある。データを暗号化して残すのではなく、証明だけを残してデータを残さない設計だからである。

制度は接近と後退を同時に起こしている

規制の方向は一様ではない。EUの資金洗浄防止規則(規則2024/1624)第79条は、2027年7月の適用開始以降、暗号資産サービス提供者が匿名口座および「匿名性強化コイン」を扱うことを禁じる。これは匿名性の禁止であって、秘匿性と開示可能性を組み合わせた設計の禁止ではない、と読むのが自然だ。だがその境界線を当局が明文で引いた例は、まだ乏しい。

実務者にとって、ここが最大の律速要因だと考えられる。暗号技術が動くことと、監督当局が「閲覧鍵つきの秘匿」を正規の監督手段として受け入れると明示することは別である。前者は2026年に相当程度満たされつつある。後者はまだない。

一方、需要側は動いている。Cantonは秘匿を前提に設計されたネットワークで、DTCC(米国の証券保管振替機関)がDTC保管の米国債の一部をトークン化する計画を進めている。同ネットワークは2025年7月に24時間体制のオンチェーン米国債取引を実施した際、秘匿機能によって守秘性を確保しつつ分散型の公開インフラの利便を得たと説明している。日本でもProgmatが2026年5月、DeFi接続に伴いパブリックチェーンを使うユースケースが増えるとしたうえで、セキュリティと並んで「取引の秘匿性をどう実現するか」を対処すべき課題として明示した。

反論はどこにあるか

最も強い反論は、「秘匿はそもそもボトルネックではなかった」というものだ。

日本のST(セキュリティ・トークン)市場は当初から許可型チェーンで運用されている。参加者は限定され、取引内容は外部から見えない。秘匿はすでに完全に確保されている。それにもかかわらず、二次流通は育っていない。BOOSTRYの市場総括レポートによれば、2025年度に累計公募発行額は3,300億円を突破し前年度比2倍に伸びた一方、ODXが運営するST二次流通市場STARTは2026年3月末時点で8トークン・時価総額336億円にとどまる。秘匿を満たしても市場は生まれなかった。だとすればZKは、解いた先に何もない問題を解いている可能性がある。ボトルネックは、投資家層の薄さ、商品設計、税制、権利移転の法的整理といった、暗号技術と無関係の要因ではないのか。

この反論は強い。ただし、それが示すのは「秘匿が十分条件ではない」ことであって、「必要条件ではない」ことではない。許可型で秘匿を確保する方法は、秘匿と引き換えに外部との接続性を捨てている。ZKに意味があるとすれば、それは秘匿の獲得ではなく、秘匿を保ったまま公開ネットワークの流動性・担保・決済手段に接続できることにある。日本のST市場の停滞は、秘匿が足りないからではなく、秘匿を確保するために閉じた結果ではないか——というのが筆者の見立てである。

ただしこれは仮説であり、検証されていない。判定材料は具体的だ。Canton上のDTC保管証券のトークン化、Progmatが表明したDeFi接続、機関投資家向け選択的開示の各種実装——このいずれかが、実証ではなく本番運用として「秘匿を保ったまま外部流動性に接続した」実例を2027年までに示せるかどうか。示せなければ、この反論のほうが正しかったことになる。

日本の金融機関にとっての意味

第一に、いま許可型基盤で確保している秘匿を、開示設計の言語に翻訳しておくこと。「見せない」ではなく「誰に、どの粒度で、いつ開くか」に書き換える。この整理は技術選定より先に必要で、基盤が変わっても再利用できる。

第二に、判断基準を証明性能から制度受容へ移すこと。証明が速くなったというニュースは判断材料にならない。分岐点は、監督当局が閲覧鍵や選択的開示を監督手段として明文で扱うかどうかにある。当面の観察対象は、EUの資金洗浄防止規則の実施細則とEDPBガイドラインの運用、および国内の適時開示・記録保存要件との接続である。

第三に、「秘匿がパブリックチェーンの既定値になったとき、自社の許可型基盤に残る優位は何か」に先に答えておくこと。残るのは秘匿そのものではなく、参加者の身元確認、強制移転などの有事対応、既存事務との接続だと考えられる。ここを言語化できていない組織は、環境が変わったときに移行の是非を判断できない。

SSLモーメントは来る。ただしそれは証明が速くなった日ではなく、秘匿が発行プラットフォームの既定値になり、監督当局がそれを咎めないと明示した日である。その意味で現在地は1996年であって2018年ではない。もっとも1996年と決定的に違う点が一つある。当時は暗号が先にあり需要が後から来たが、今回は金融機関という需要が先に存在している。だから20年はかからない。相場観としては3年から5年の問題だと考えている。

出典


本記事は公開情報に基づく分析であり、投資助言を目的としたものではありません。

END OF RECORD / VERIFIED 2026-08-19

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WRITTEN BY
石田陽之

石田陽之

編集長

2017年より、一貫してトークンやNFTの活用、ブロックチェーンゲームの企画・開発、NFTを活用した事業開発に従事。大手エンタメ上場企業を始め、80件以上のブロックチェーンプロダクトに対し事業責任者や設計、PM、アドバイザー等、様々な立場でブロックチェーン関連の事業開発に関わってきた。2021年よりCabinet株式会社を創業。

@akihisa_ishida →

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